デジャブとブジャデ
- 2026年8月1日
- Monthly Essay
今まで行ったことがないところの景色に見覚えがあったり、会ったことが無い人と面識があるような気になることがある。デジャブと言われるこの“既視感”は誰もが経験していることだろう。私の場合、『この景色は夢の中で見たことがある』という既視感が多いように思う。実際に見たことがあるのか、見たことがあると思っているだけなのかは最後までわからない。いや最後になってもわからない。
思考を巡らせるときにこのデジャブと逆行することがある。つまり今までわかっていると思っていたことをいったん外に置いて、初めてそのことに触れたという設定で捉えなおす仕方である。“ブジャデ”と洒落た命名がされたこの仕方は、哲学においては常套手段のようだ。そうでなければ当たり前と思っていることを掘り起こしていくような思考は生まれない。『他者とはなにか?』『我とはなにか?』なんて普通の思考回路で解決しようなんてしても無理だろう。
このブジャデとかかわりのありそうな言葉にunlearnというのがある。learnの否定なのだから学ばないのだろうと思いきや、そうではなくあえて訳すとすれば“学びほぐす”といったところだろうか。今まで学んできたことをいったん外に置いてそのことを別の観点から掘り起こしていくことのようだ。私はこのunlearnに前々から取りつかれている。初めてその言葉を知ったのはおそらく詩人谷川俊太郎の本(詩集ではなかったはず、、、アバウトですみません)である。詳細は忘れてしまったが、unlearnという言葉は脳裏に焼き付いている。かなり昔の記憶なので、きっと私はlearnを続けて行けば、次に私を待ち受けているのはunlearnなのかもしれないとなんとなく感じていたように思う。
そういう風に学問を眺めると不思議な見え方がする。免疫学でT細胞やB細胞と分けたり、細胞性免疫や体液性免疫と分けたり、Th1やTh2、Th17のように分けているのは実は大きな勘違いなのではないか?(間違いとは言いません)歯周病菌による病原性は菌種に関わらない別の要因があるのではないか?西洋医学で解明されていないことでも、チベット医学のようなまったく別の医学のほうが案外真理に近いのではないか?いったんunlearnを解禁すると自分の世界が限りなく広がるような気がする。それまで決まった枠組みの中でしか理解、解釈していなかった自分がとってもとっても小さなものに見えてしまう。やっぱりデジャブのような既に見た感覚にとらわれているより、まだ見ていない“未視感”というブジャデに取りつかれるほうが自分の可能性を広げてくれるのかもしれない。哲学者ってすごいな~。